昭和54年07月03日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそをいうも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 信心は伊達や粋狂でするものじゃない、と言う事です。ね。身に徳を受ける事の為に信心はあるんだと。と極言してもよかろうと思います。それにはやはり貫くと言う事が大切だと言う事でございます。ね。神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんと、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。そこで私共が思いますのに、はぁこういう時がお徳を受ける時だから、とそう言うわけで、かえってそういう時に、まぁ最近の御理解で言うならば、合楽理念の実験が本当にでける時なんだ。
 実証が本当にでける時なんだというふうに、そういう雨が降るから風が吹くからと言った様な時にです、ね、そういう心が起こってきたら、いかにも信心こりゃ修行は、みんなそんなもんだろうと思うんですけれども、神信心においては尚更の事、その厳しいまでのその修行こそが、身に徳を受ける修行。普通どんなにまぁよい信心をしておっても、徳を受けると言う、ここでこれで徳を受けるんだなぁ、これで徳を下さろうとする神様の願いだなぁ、働きだなぁと言う事が分かっておってもね。
 そこを疎かにするから徳が受けられん事になるわけです。ね。ですから本当言うたら、雨が降るから風が吹くからという時ほど、心が勇んで来る信心。ね。だから心が勇んで来ると言う事は、もうそんな厳しいと言う様な、やはり信心ちゃじゅつないと言う事ではない事になるんです、ね。それこそ有り難く楽しくなってくる。これは本当にそうですもんね。例えば私共、歩いて教会参拝さしてもろうとる時、今日はいよいよ雨風で傘もさされんというごたる時。
 もう下の方はじゅっくりなってね、雨具カッパを着ておりましても。そりでこう絞らにゃんごつなって、そしてそのお礼に、畳の上には座れんから、お縁からこう御祈念させてもらいよった。もうそれこそ確かにね、あのうはぁこげん時に徳を受けよるとじゃろうと思うように、有り難涙がこぼれるような体験が、皆さんにもあろうと思うですがね。やっぱりそういう時ですよ、身に徳を受ける修行じゃと仰る。
 それこそ「雨が降る日はおじゃるなと言うに、濡れておじゃれば尚可愛い」と言う様な情念のようなものが、神様から私共へ、こう伝わってくるんですよね。今日はしるしかった、しるしかったとそう言う事ではない。その濡れて参ったその事が、例えば有り難い。もちろんこれは雨とか風とかと、言う事だけの事ではありません。この忙しい中にこういう事情の中に、こういう難儀の中に、と言う事になると思うんです、ね。それこそ今ごろは、そんな事はあんなっさいませんけれども。
 以前善導寺の原さんが、今日はお参りが出けん。お賽銭がないお初穂がないと言った様な時がちょいちょいあった。けれどもいよいよお参りすると腹に決めとると、どっからかそれが出てくると言う事は、もう言うならば不思議だなぁ、自分が参りよるとじゃないなあ、自分がお供えしよるとじゃないなぁ、そんなお届けがこれは原さんだけじゃありませんけれども、徳に原さんの過去の信心においては、そういう事がちょいちょいあっていたと言う事です。
 やはり貫かれたんです。ね。それこそあの降る時でなからなければ、または風が吹く時でなからなければ頂けない程しの有り難さと言うもの。いうならば神の実践実証というかね。実践させて貰う事によって実証が出来る。いうならばいよいよ神様を頂く事が出来る。昨日は、ここにこういう御本が上がっておりましたから、何の本だろうかと思いよった ら、ここでは毎日お届けがあるんです。この先生の亡くなられて、奥様が信者方をたくさん連れて団体参拝されて来られた。
 高須教会からの。先生の教話と書いてありますが、それを十頁ばかり読ませて頂いたんですけれども、やっぱりそのお徳を受けおかげを受け、人がたくさんもうとにかく数限りなく人が助かったんですからね。此の頃からもあちらの御信者が参りにみえて、この前の春の御大祭に、親教会である玉水教会に一列車を借り切って八百名、御大祭の御参りがあったと言うんですからね。今でもそういう御比礼をやはり頂いておられる。
 お徳その初めてそちらの先生がここへお参りになった時に、その翌日から私はこの全然存じ上げませんけれども、この霊様から御依頼を受けたんです。それはまぁいろいろその御依頼の内容はありましたけれども、以来毎日合楽の御届帳に阿部勝子先生、今の教会長がね阿部勝子という先生の御届が毎日あるんです、それ以来。そしたらあちらから沢山の信者が参って来る様になったんです。
 はぁやっぱ先生の願いが、合楽の上にこうやって現われておるんだと言うふうに思うんですけれどもね。それでご自分が辿られた、御信心というものを、まぁ話しておられるのを、もうこの御本になっておるわけでしょうけれども、だいたい胸の病気で、もういよいよ死に直面しておられる時に、始めて金光様。それまでは当時の何とか高等学校。今の大学にも匹敵するだけの学校なんです。そしてスポーツは万能であったという。もう水泳柔道、いろんなラクビーなんか。
 もうとにかくそのうまぁ学生時代に、そういう活躍をされた方らしいんです。お母さんが御信心をなさっておったけれども、この世に神様があるものかというのが、あのう先生の信心だったですけれども、いよいよもう無い命の瀬戸際に立たれた時に、始めて金光様を願われた。それでもうおかげを受けてもおかげを受けても、やっぱふがよかったつじゃろう。私は昨日のご理解で思わせて頂いて、これがその通りの事が書いてある。四十何回喀血から喀血されて、そして何とかという注射をすると。
 その喀血が止まる。それがもう二十回目頃からもう止まらなくなった。それであのう金光様を唱えて、助けて下さいと言うと止まるのだそうです。はぁ止まった。そりばってんもう止まる丁度時期が来とったけん止まったつじゃろ うと言う、その思いを何十回繰り返した。不思議に神様に一心にお縋りをすると、その止まったそうです。血が。そこでもういよいよ疑う事も余地も無い程しに、神様が分かられたと言う事が書いてございます。それからという信心は、大変な御信心御修行をなさって。
 それこそ数限りがない程しの人が、助かったとこう。だから先ずはですね、その神の実証と、ね。いうならそれをおかげの実証という てもよいでしょうけれども、もう疑う余地がない程しのものを、私共は信心辛抱さして頂く、いや雨風の吹く時強い時にです、それを繰り返し頂かせて頂く、チャンスだと言う事になりますでしょうが。ね。だからならば、それをなら貫いた上にも、貫かせて頂いておるうちに、神様の絶対という、信心の確立が出来るのです。
 有り難さも勿体なさも、または神様の生き生きした働きを身近に感じる事も出来る。それとてもやはり、何十回となしにです、繰り返させて頂いておるうちに、この神様のおかげ頂くより外に、手はないと言う様な信心が分かったら。ね。例えば大きな声をする事はいらんとか、拍手でも小さい音でも聞こえるとか、人にものを言う通りに拝め、とかいう教えが先にございますけれども、だからその疑いが起ったら、疑いが起ったでよいのです。けれども次の瞬間には、また縋らずにはおれない。
 それでまたそれが、本当の神様のおかげと言う事が実感できない。そういうなら繰り返す所にです、私は言うなら降るから、又は吹くからというて怠ってはならない やはりその辛抱こそが、繰り返させて頂いておるその辛抱が、いわば徳の形になってくると言う事です。ね。雨の降る日に、それこそ普通ではお参りが出来ない。もう今日は傘もさされん、と言った様な時にでもです、神様へは言い訳は、今日はこんなふうで天候の具合でと、言い訳は出来るんですけれども。
 それを押して参った時ほど、それこそ濡れておじゃればなお可愛いいと言う様な、情が神様との上に交うてくる。それが交うた上にも交うて、しかも間継なくね、それが貫かれていく所に、信心辛抱のお徳と言う事になる。お徳を受けたら、もう自分の助かりだけではない。お徳を受けたら止めよと言われても止められない。ね。信心辛抱とはそこまでが私は辛抱ではなかろうかと思うです。ね。まぁいつも頂く御理解ですけれども、私は昨日この高須の先生のお話を少し読ませて頂いてですね。
 もうその貫き通されたというところ。そん時にゃやはりもう疑いも起こってくるし、神様のおかげをおかげではないと思われる、けれども次の瞬間には縋らねばおれないように、もう体の上にあらわれてくるね。おかげで貫きぬかれた時には、もうそれがお徳になっておった。証拠に数限りもない人 が助かる事になったと言う事になります。だから私共はね、そういうあのうまぁ場合には、歯を喰いしばらねば、ならないような時もございますけれども、ね。
 しかしこの先には、どげなおかげが頂けるじゃろうかと思うたら、にこっと出けるような信心ですね。それをね、確かめ確かめして、積み上げていって始めて言うなら、身に徳を受ける修行と言う事になるのです。一辺貫いたから、一辺そう言う事が体験があったからと言う様な事ではいけん、それが貫かれて、信心辛抱の徳になるというふうに、私は思うですね。どうでもあれもこれもとはやれんでも、この事だけは一つ貫かせてもらう、という信心をいよいよ身に付けたいですね。
   どうぞ。